●初めてのアンケート調査
「ビジネスと人権」への関心が日本で一気に広がったのはここ数年のことである。背景には日本政府の動きがあるだろう。政府は2020年10月に『「ビジネスと人権」に関する行動計画(2020-2025)』を策定し、2022年9月には「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」を策定した。
このガイドラインの策定に先立ち、2021年9月~10月には「日本企業のサプライチェーンにおける人権に関する取組状況のアンケート調査」が実施された。2786社(回答は760社)を対象にした、この分野では初めてのアンケート調査である。ガイドラインの策定は、このアンケート調査結果で政府への要望が多かったことに応えたものとされている。
本稿では、このアンケート調査の「設問5:人権方針の策定にあたり、国際的な基準に準拠していますか」を取り上げ、アンケート調査結果として総括されている「6割強が国際的な基準に準拠」の妥当性を検討する。
なお、経済産業省のウェブサイト上で「集計結果」として公開されているのはアンケート調査結果の一部にすぎない。元の調査票も公開されていない。そのため筆者は情報公開請求を行い、調査票及び単純集計値の結果のすべてを入手した。以下で言及する調査票上の記載は一般には公開されていないことを付言しておく。本来公開されるべきものであることは言うまでもない。
●「国際的な基準」への「準拠」
この設問5でいう「国際的な基準」については、調査票において、「国際人権規約、国連ビジネスと人権に関する指導原則、ILO基本8条約、ILO宣言(労働における基本的原則及び権利に関するILO宣言)、ILO多国籍企業宣言(多国籍企業及び社会政策に関する三者宣言)、OECD多国籍企業行動指針、国連グローバルコンパクト、など」と注記されている。そして、「準拠しており、方針の中で具体的な基準名も示している」の44%、「準拠しているが、方針の中で具体的な基準名は示していない」の11%、「部分的に準拠している」の10%を合計した65%をもって、「6割強が国際的な基準に準拠」と総括されている。
続く設問6では、準拠している国際的な基準を複数回答ですべて選択させており、その結果は次のようになっている。指導原則:69%、ILO宣言:64%、国連グローバルコンパクト:60%、ILO基本8条約:30%、国際人権規約:58%、OECD多国籍企業宣言:26%、ILO多国籍企業行動指針:18%。
一方、指導原則は原則12で、「人権を尊重する企業の責任は、国際的に認められた人権に拠っているが、それは、最低限、国際人権章典で表明されたもの及び労働における基本的原則及び権利に関する国際労働機関宣言で挙げられた基本的権利に関する原則と理解される」とし、さらに同原則12のコメンタリーでは、人権諸条約などの「追加的な基準」の必要性についても言及している。つまり、指導原則では、世界人権宣言、国際人権規約、ILO宣言(したがってILO基本8条約-現時点では10条約)に「準拠」することが、企業の人権尊重責任の取り組みにおいて「最低限」求められている。
ここでまず一つの疑問が生じる。アンケート調査結果では、指導原則に準拠していると回答した企業が69%であるのに対し、ILO宣言へは64%、国際人権規約へは58%、ILO基本8条約へは30%の準拠であり、いずれも69%に満たない数値となっている。この5%~39%の落差は、指導原則に準拠していると回答しながら、実際には指導原則に準拠していない企業の割合を示しているのではないだろうか。「6割強が国際的な基準に準拠。指導原則に準拠しているケースが約7割と最も多い」との「集計結果」での説明の妥当性が揺らぐことになる。
「準拠」とは何だろうか。筆者は仕事柄、企業の担当者と話をする機会が多いが、準拠しているとは言い難いケースは枚挙にいとまがない。人権方針が「国際的な基準」に本当に準拠しているかどうかは、例えば、人権方針策定の次のプロセスである人権デュー・ディリジェンスが、どのように「国際的な基準」に基づいて実施されているかで推測できるだろう。しかし、その点を見極めるためには、個別の企業ごとに具体的に精査する必要がある。
●人権尊重がウォッシュにならないために
手がかりはある。アンケート調査には、「人権方針の策定に向けては、国際的な基準に準拠していることが求められますが、その際の課題あるいはその他何かコメントがあれば自由にご記入ください」との自由記述の設問8がある。しかし、この設問8の自由記述回答結果は、筆者が入手したアンケート調査結果の単純集計値には含まれていない。
見せかけの環境保全の取り組みを表す「グリーンウォッシュ」が批判を浴びるようになって久しい。「SDGsウォッシュ」や「ESGウォッシュ」が批判される状況もある。「ビジネスと人権」の取り組みが見せかけに終わらないためには、実態の正確な把握が何よりも重要だ。アンケート調査は、一定の期間をおいて継続的に実施することで、把握すべき実態の進捗を読み取ることができる。2025年に予定されている行動計画の改定に向けて、同様のアンケート調査が実施されるのかどうか定かではないが、実態をより正確に把握するための工夫と、結果を公開する透明性が求められる。
国際的な人権基準に実際に準拠しているかどうかは、つまり企業が開示する内容が 「ウォッシュ」でないかどうかは、企業の取り組みの評価の問題だけにとどまらない。それは、企業活動により人権を侵害されている人々を適切な人権デュー・ディリジェンスで把握し、救済につなげるためにこそ重要である。
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